第2回 タダシ
ホテルを出て彼女の乗ったタクシーを見送る。
きれいな人だったが、もちろん断られるだろう。
こうなることを見越していたように、ユリアの予約はもう入れてある。
今日は出勤しているようだ。
ユリアという名前は、当然本名ではない。風俗店のいわゆる源氏名だ。
22才という年だってほんとうかどうかわからない。
22が25でも19でもいい。そんなデータは仮説を組みあげるための素材にすぎない。
我ながら難しい男になってしまったもんだ。
ときどき職業のせいにしたくなる。
もうすぐ40になる。
学生の時から大学の講師を務める現在まで、これまでの人生のちょうど半分を
「前期前方後円墳の後円部の形状」に費やしたことになる。
歴史には(とくに古代史には)正解はないと言い切れば、
諸先輩のお叱りは免れないが、
やはり答えを出せたつもりでもそれは仮説の体系化である。
だってなんとか王がなんとかしたかしなかったかなんて、確かめようがない。
数えきれない個人的な仮説が必死の擦り合わせを重ね、
妥当性の精度を上げた高みに我が学問はある。
それをおれは20年飽かずにやってきた。
しかしその日々も、たったひとつの真実の登場によって終わる。
あり得ないことだが例えば九州のどこかで「邪馬台国」の表札のある
宮殿跡でも見つかって、それが科学的に動かしがたいものであったならば、
その時点までの果てしなく地道な努力も、
ロマンという名の居心地のよい曖昧さも泡と消える。
研究者はほんとうは真実に辿り着きたくないのだ、ってまた叱られるな。
しかし少なくともおれに関しては、そうだ。
真実を知ることは結論を出すことだ。
結論を出すことは終わることだ。
終わることは嬉しいことではない。
一人っ子のおれを残して友達が家に帰ったようにか?
おれは仮説のままで続くほうがいい。
ユリアの店を初めて訪れたのは半年前のことだ。
飲み会のあとゼミの学生たちに入口から押し込まれた。
「お客さんツイてる、予約が急にキャンセルになったから、あんな美人だもん」
オールバックのにぎやかなアジア系店員に促されて
パーテーションのドアを開けると、2畳ほどの狭いスペース。
その半分をタオルを敷いた万年床が占めている。
古い記憶では、この手の部屋はやたらファンシーだったような。
しかしここには、キティもミッキーもマイメロもいない。
ティッシュは5箱売りのクリネックスだ。
機能(おそらくここの住人にとっての)がむき出しでつまり味気なく、
むしろ自分の性欲には似合っている気がした。
そこに入ってきたのがユリアだった。
普段文字ばっかり追っている網膜には、もったいなかった。
確かに女優に似たひとがいるなと思った。
おれのほうはたぶん、チェックのシャツを着た小太りのオタクと思われたに違いない。
おまけにフィールドサーベイの後だったから、リュックまで背負っていた。
とは言えあたらずとも遠からず。
ゲーム漬けで、近所のコンビニより遠くに行かない週末もある。
初対面のぎこちない会話の中でそれを彼女に告げると
(やっぱりね)という顔で笑った。
おれはついいつも調子で、しかし言い訳まじりで
「ヴァーチャルな人間性欠落の要因と唱える人は多いが、果たしてそうか?
ゲームの中では、ほんとうは誰も死なないし、
なにも終わらないし、誰も泣いていない。
しかしテレビニュースでは実際あきれるくらい人が死に、
手の施しようもないくらいに悲しみだらけだ。
健全な人間性なら、どっちを選ぶと思う?」
ユリアはセンセイの質問には答えずに
「そんなこと考えているんですね」とだけ言った。
その日は疲れからか緊張からか、射精もせずに店を出た。
やがて、ある週などは毎日通うくらいになるのに、ソレはいちどもない。
60分一緒にいて、そして帰る。靴下すら脱いでいない。
それでも、嫌らしい言い方をすると充分モトがとれているのは、
おれは彼女を見ることで、想像することで満足しきっている。
時折耳に触れる、おそらく彼女の地元のアクセント。
血管の透けて見える白い肌の産地は北国か。
この美貌と豊満な胸はその地方都市では、自慢よりも苦痛だったのではないか。
その乳房に彫られた一輪のバラ。
おそらくいたずら気分で入れたチープなバラを、細い血管が赤く染めるさまは
遠目には鮮やかな痣に見えて、
彼女の本質的な哀しみを想像させるのは男のロマンか(藁)
ただ、彼女がどういう理由か自分を閉ざしていることは、
初めて会ったときにわかった。
その美しさも雑踏の中で振り返る男は多くないだろう。
おれの仮説の彼女については、おれは彼女よりも詳しい、って当り前か。
それとも、ビョーキか。
ただそれはおれが具体的な質問をして彼女が詳細に答えない限り、
つまり決して正解には辿り着かないし、だから終わりもしない。
ある日店のトイレから戻ってくると、ユリアは壁にもたれてウトウトしていた。
その様子がいとおしく、
おれは隣に座り彼女の頭をひざに乗せて、読みかけの本を開いた。
やがて時間切れのタイマーが彼女の目を覚ます。
慌てて起きたユリアに心底照れくさそうに「ありがとう」と言った。
不意に胸がときめいたのは、初め見せてくれた「ほんとうの顔」だったからだ。
苦しみはそんなところからも始まる。
幸せな日々が続いたんだ。
ユリアはおれが行くとおれのひざ枕で横になるようになる。
大抵はおれがしゃべり続け、やがて彼女が寝息をたてる。
おれは退屈することなく、彼女を眺めたり読みかけの本を開いたりしている。
ある日そうしていつものように本を読んでいるときに、
ユリアが寝言で男の名前を呼んだ。
苦しそうに途切れそうにもらす声は、その名前が単なる名前でないことを訴えている。
コントロールできない衝動など他人ごとかばかばかしいフィクションだと思っていた。
誰なんだ、その男は?
どういうことがおれのしらないところで起こっているんだ?
おまえのほんとうの名前はなんだ?
どこの出身で、これまで何人のやつと寝たんだ?
肩を揺さぶって問い詰めればいくつかの真実は手に入る。
でも知ることは終わることだ。
自分の中で発生しているすべての気持ちを粉々に砕くように、
ハードカバーの学術書を音をたてて閉じた。
ユリアが驚いた顔で目を覚ました。
最後の客が今帰った。
つまり、タケシさんは今日も来なかった。
メールは知っているが、
そこに連絡することがあまりよいことではないことも知っている。
大きく肩で息をして、商売用のコスチュームを脱いだ。