第 7 回 ユキ
アキラさんの電話を無視し続けている。
ほんとうの事情を、ヒトシさんに報告するべきなんだろうか。
そんな怖いことできるのだろうか。
親と子に別々のウソをつくのはもういやだ。
その背徳の(背徳の!)構図を描いているのは私なのに。
やっぱりウソは苦手。あの人の娘だ。
つじつまあわせに息が詰まる。
心が時折、折れそうになる。現にアキラさんから逃げている。
しかしこの物語をまだおしまいにすることはできない。
放棄することは、あの人を放棄することだ。
ヒトシさんは「死んだ父親の親友」として出現した。16歳の夏。
私には父親の記憶がない。子供の頃事故で、と聞かされていた。
ママに父親について質問すると、なぜか叱られた。
写真はある。何枚か。どことなく私に似ている。
そりゃそうだろう。今思えば。
ママの弟(つまり叔父さん)の写真だから。
後から聞いたら「二度と顔も見たくないくらい嫌い」な弟。
つまり、私が顔を見ることもない人。はめられた。
そんな写真に、私は時には手を合わせてきた。お守りください、とか。
もっとも子供心にも、父親を巡る不自然な気配は感じられる。
そんな不自然な父親を接点としているのだから
ヒトシさんは関係の見えない人。まったくの他人。
好きになるのも自由だ。恋の好き、だ。焦がれてまっくろこげだ。
3ヵ月後に彼こそがほんとうの父親だと、ママから涙の告白を受けるが、
どうしてくれる、もう手遅れだ。
ふくらみかけた胸より思いは大きく膨張し、
絶望的に活発ながん細胞が全身を蝕むように、恋煩い。
かつてママがそうであったように。
相手に妻子がいても私を生んだような激しさで。
どうしようもなく。同じ男に。
ママがそばに来てはこうなるに至ったいきさつや、
ヒトシさんと彼女の思い出を語るのが耐えられなかった。
ごめんね、って?自分だけ彼と素敵な思い出をつくったことについて?
それとも私の恋を邪魔していることについて?
わかってないと思うけど。絶対言わないけれど。
私がずっと泣いているのは、父娘の劇的な再会じゃないの。失恋なの。
この時きっちり失恋しておくべきだった。
しかし私は一途な気持ちに、他の選択肢を与えることに失敗した。大失敗。
恋心はいったん地下に潜伏し、
やがて破壊力を増して地上に再び現れることとなる。
19歳。ママが死んで、私はそうすることがあたりまえであるかのように、
ヒトシさんの家へ引き取られた。
お芝居の主演女優は私が相続し、
役柄はもちろん「ヒトシさんの死んだ親友の娘」。
奥さんは知っていたと思う。
だいたいヒトシさんのウソじゃ小学生も欺けない。
仮病を騙って、その病名を忘れてしまうような。医者のくせに。
内緒で競走馬を買って、
その馬の大きな写真を書斎の壁に貼っていたような。そんな人。
奥さんは生活と引き換えに、あきらめていたのか。
私のような子供が、少なくともあと二人はいるらしい(私調べ)
こんな男を好きになれば、幸福な出口などない。
そのまま逝ってしまったかわいそうなママ。と、学ばない娘。私。
豪快、乱暴、それが売りの男ほどディフェンスが脆いらしい。
成功した男は、自分の成功パターン以外知りやしない。
それでやれちゃうのだ。面倒くさいことは誰かがやってくれるから。
あとは大声を出していればよい。
だから、不意の反撃にはいつもお約束のように、ただごとではなく慌てふためく。
私もいちど試してみたことがある。
ついに始動。ここまで長かった。
15部屋あるお屋敷の浴室の隣に、小部屋がある。
誰かをそこへ呼びつけては、ヒトシさんがマッサージをさせるのだ。
ある時「わたしがしましょうか?」と言ってみた。
驚くほど喜んだ。がっかりするくらい。
この時ばかりは娘に肩たたきしてもらう父親だったのだろう。
私はといえば、初めて触れる彼の肌に濡れていた。
何度めかの夜。誰はばかることなく小部屋に納まる二人。
上半身裸でうつ伏せになるヒトシさんの不意をついて、
背中から覆いかぶさるように抱きしめた。彼の筋肉が一気に硬直するのがわかる。
押しつけたやわらかい胸の奥で、私の心臓が登頂の喜びに高鳴る。
そこにたたみかけるように伏せている彼の顔を、
横から自分の顔でこじ開けるようにキスしようとする。
彼は女の子のようにイヤイヤをする。息が漏れるような声。
オマエハアタマガヘンナノカ?震えるように。いとおしい。覚悟は決まった。
私は小部屋から普通に、しかし満足気に出て行った。
2週間彼は目も合わさなかった。
二度と例の小部屋に呼ばれることはなくなったが、
真夜中に何度か彼の寝室へ忍び込んで行った。
奥さんとは別々の部屋だ。
静かにドアを開けてベッドで眠る彼をやはり背中から抱きしめる。
彼は一瞬にして何が起こったかを察知しやはり身体を硬くする。
まるで義父にイタズラされる娘だ。
この私のか弱い人を暴君と畏れ崇める人々がいる。
男の世界は不思議なサル山だ。
それ以上は何もしない。ただ、もう帰れと言われるまでしがみつく。
ある夜わたしの寝室のドアが静かに開いた。
私はいつも私がそうしているように、背中から抱きしめられた。
突然の喜びに気絶しそうになったが、そうはならなかった、
私を抱きしめて震えているのがアキラさんだったから。
このヒトシさんの三男が私に好意以上のものを持っていることは知っていた。
こうなる、漠然とした予感はあった。
アキラさんは父親と特別似ていた。
輪郭も体つきも、正反対に見える気性も表現が違うだけで根は同じに思える。
私は彼の熱を背中で感じながら、もういちど目を閉じた。
私はこの人でいいのではないかと何度も思い込もうとした。
成功しなかった。セックスはない。手と口でごまかしている。
姉弟のたわむれと許されるか。許されるわけないか。
アキラさんが東京に行ってから、
こんどはほんもののヒトシさんが、深夜のドアを開けた。
「アキラとはできているのか」と聞いた。
「まさか」と答えた。1ヵ月後私も東京に出てくることとなった。
アキラさんの監視にかこつけて厄介払いのつもりか。
しかし彼の平安の願いは叶わないだろう。
どれだけ離しても父娘じゃないか。糸は切れない。
おまけにアキラさんという人質を私は確保している。
やっぱり怖い。ウソもいやだ。でも。(ワタシハアタマガヘンナノカ?)
終わらない物語。
ナナコに子供ができたらしい。のぞみで東京へ向かっている。
飛行機は嫌いだ。
7人めか?いや8人めか。いや7人めか?
車中で缶ビールを5本開けたがぜんぜん酔わない。