第 10 回 ヤスヒコ
ナツミがオーディションの席を蹴って帰ってしまった後、オレは散々な目にあった。
妙にものわかりのよい若いヤツらの中で、あの気性の激しさは異様だ。
17歳。She is just seventeen.
激しさは露わにはならない。むしろ外見では感知するほうが難しい。
ただオレは知っている。
無表情な金属の器の中で、
その金属すら溶かしかねないものがいつもぐつぐつと煮えたぎっている。
いつものように竹下通りでナツミに声をかけたとき、
声をかけておいて言葉につまったことを覚えている。
人を見下ろすような大きな瞳は夜の黒い沼のように静かだったが、
その目を見ていると、
オレの中の柔らかく湿った部分に針を突き立てられるイメージに急にとらわれて、
オレはコイツに一瞬で殺されるだろうと思った。
長年手を、さまざまな人間の血や体液で濡らしてきた男の勘か。
その勘は、おいおいただじゃすまねえぞと、教えてくれるのだが。
しかし破滅の予測は、時折、抗しがたい快感だ。
台風の襲来を告げるニュース。
自分の町が、巨大な渦巻きに飲み込まれようとしている。
待ち伏せ、追いかけ、すがりつき、
警察に通報されてないってことは脈があると信じて3か月、
いつやめてもいい、を条件にやっとこ契約にこぎつけた。
そこに現れたのは、延々金の話ばかりを繰り返す母親。
途中で席を立ったナツミをケータイでつかまえて、
小6の多感な時期に父親が女と家を出たこと、
結構な額の借金まで置いて行かれて、
母親がだんだん壊れていくのを目撃してきたこと、
感情を露わにすれば泣き顔しかつくれず、
感情を持つことすら壊れそうで怖かったというような話を聞いた。
よくあるお涙頂戴話だが、
実際にはナツミは郵便局への道順を教えるように、事実関係を2分で述べたに過ぎない。
その物語はオレの理解だ。
(コイツには、オレがいてやらなきゃダメだ)
という思い込みがどれだけアタマがヘンか知ってるさ。逆のケースでね。
でも「運命の人」って、相手に相談なしに決めていいもんだろ?
「運命の17歳、ってキャッチフレーズどうかな?」
いいわけないわな、ひどすぎる、あんまりだ。
とにかく、ナツミの感情を再開する最初の男になりたかった。
「ナツミがくだらないと思うのはわかるよ、
でもこの業界このくらいの知能指数じゃなきゃダメなんだ」
たまには33歳年上の男、らしい説教のオチまで用意しても無視されて、ハイ終了。
理由もない。道化は悲しいもんだ。
ナツミは自分の気持ちや考えを表わすのに、表情も抑揚も用いない。
仮に怒っているという事実も、怒りという感情にのせて表現されない。
吐き出される言葉は、紙に書かれた文字だ。
「いやですっ!」は、「イヤデス」だし、「うれしー?」は「ウレシイ」だ。
余計なあやもひだもなく、用件は5秒で片付く。
ナツミがオレに向けていちばん発する言葉は「ワカラナイ」だ。
「おはよう」でもオレの名前でもなく。
例えば、今度こんな仕事が来たよと、CMの絵コンテを見せる。
(チョコレートをかじってうっとりする人なんているはずないのに、
なんでわたしがそれをやるのか)ワカラナイ。
(チョコレート相手に、なぜ一生友達でいようね、って宣言するのか)ワカラナイ。
そしてついにどうしても理解できないことに出会うと、3秒以内でいなくなる。
イヤダ↓ワカラナイ↓いなくなる。
今日ナツミがオーディションから脱走したのは、それだ。
こういうことらしい。
それはオーディションとは形ばかりで、ほぼナツミに決定していた案件であった。
大手の消費者金融の仕事で、そのCМは歴代3人のグラビアアイドルを輩出していた。
そのクライアントの有名な豪腕宣伝部長が、ナツミを気に入って指名してくれたのだ。
ウチの、というかオレのような極小プロダクションには、
小判を掘ってたらその下に札束が埋まっていたような話だ。
だから・水着はいやだ、・グラビアアイドルになるつもりはない、・サラ金は嫌いだ、
とグズるナツミを、
・ビーチの設定なのだから仕方ない、
・オレはナツミをグラビアアイドルとして売るつもりは毛頭ない、
・消費者金融という仕事は日本経済の、ってオレなに言ってんだ?
っていうか、なによりもこんなチャンスはないと、
(いくらになると思ってるんだ)は、ぐっと飲み込み、3日72時間で説得、
というか根負けさせた。
やっとこオーディションルームに押し込んで、オレが外の廊下で待っていると、
テーブルを叩く音、続く男の怒号。
ゆっくりと出てくるナツミ。厄介な仕事が増えた瞬間だった。
しかしオレじゃなければできない仕事。
オーディションははなから水着だった。「跳んでみて」と言われたらしい。
「コンテにあるのですか?」と聞いたらしい。
「別にないけどいいじゃない」と言われて、外へ出てきた。質問を返せただけ成長した。
タレント一人育てるにも、金がかかる。
いつも仕事を滞らせるようでは、回収もおぼつかない。
もうこれは新人タレントに投資しているのではなく、貢いでいるのだ。
オレがほかの女たちに貢がせた金を。
客からせしめた金でホスト遊びをするホステスだなまるでと思い、オレらしいと笑う。
ああ、オレは不幸ではない。
同業者に、いいタマを拾ったね、
お得意のAVに沈めるとこまで絵は描けてるんでしょとニヤニヤされて、
殴りそうになっても殴らない。
いまオレがトラブルを起こしてアイツにいいことなんてなにもない。
オレと一緒にあっさり潰されるか、(3秒以内で)いなくなって、
オレのことをメモリーから消去してしまうだろう。
たぶん後のほうだ。前も困るが、後は困る。
アイツはオレの、なんていうか、心臓だ。
オレだってほかにやらなきゃならないこともあるし、
アイツに手を出せない以上抱く女も必要だ。
心臓だけあっても生きていけない。でも心臓がなければ生きていけない。
なんてくさい例え話だね。あんまりだ。
口先ひとつでここまで来たオレも、ああそうだ、
気の利いた例え話もできないくらい、例えるつもりもないくらい、
惚れているのだ。
この学校でわたしは珍獣だ。遠巻きにみんなが、指差すようにわたしを見ていく。
ある日サトルがわたしの席に来た。知らない顔だ。
「友達がおまえのことが気に入ったって言うけど、なんか感想ある?」