第21回ハルミ
私は、間違いなく男性に父親を求めている。
父親は普通、娘のカラダを求めない。タクヤは私のカラダを常に求める。
そうしてこの恋愛は、かみ合わないまま終わるのだろう。
タクヤとつきあっていると、犬のことを考える。
たとえばうちのタルである。タルは黒いラブラドールのオス。
生まれてすぐうちに来たとき、
コロッコロに太っていてまるで樽のようだったから、おかあさんがそう名前をつけた。
いま4歳。タルを見ていると、
彼に対する私の深いはずの愛情はともかく、動物の本性はやっぱりショックだ。
犬が腹を見せるのは、服従の証だと聞いたことがある。
ウソだろ。見せているのは、少なくとも私には腹ではない。
私が腹をなぜてやると、彼は下半身をぴくぴくさせる。
そして、普段は隠れている赤唐辛子をむき出しにする。
それに慣れていない頃(セックスも知らない頃だ)、
彼のむき出しになった赤唐辛子は大自然の営みの一部であって、
不潔でもなんでもないという結論を願ったが、おかあさんがその様子を見て私に、
(もうやめなさい)と目配せした。つまり疑いようもなく、そういうことなのだ。
タルを嫌いにはならないが、欲望にあまりに忠実すぎるのは愚かだ。
(さあ触ってくれ、気持ちよくしてくれ)
タルの低いうなり声はそうとしか、いまはもう聞こえない(声はタクヤ)。
犬はセックスと食べることしか考えていない、と言えば言い過ぎか?
タクヤもそうだと言えば、言い過ぎか?
犬との生活。
タルは相手にしなければそれ以上はしつこくはして来ないが、もう一方の欲望くんはそうもいかない。
その薄い胸板や平らなおなかの内側に、
これほどまでの欲望がどのように内蔵されているのだろうといつも思う。
どうしようもないどろどろが出口を探して伏流していることを想像すると、
理解できないという意味でおぞましい。
タクヤはクラスメイトだ。付きあってくれと言われてから半年になる。
セックスするようになってから4か月くらいか。
彼の部屋、私の部屋、学校帰りの神社の境内、
夜の部室、映画館の暗闇、町外れの古いラブホテル、ビルの隙間。
タクヤはいつも照れくさそうに、でもダイレクトに、発情していることを私に告げる。
私の機嫌のいいときは5,6分で簡単な処置をしてあげることもあるが、
私にとってセックスは、積極的な意味がない。
私にも性欲はあるにはあるようだが、
赤唐辛子むき出しの欲望に沿うのは、肉体的にも精神的にもとても難しい。
タクヤの性欲の頻度が2の倍数だとすると、私のは7の倍数。
倍数が重なるときくらいでいい。14,28,42、の頻度。
そのセックスに、消極的な意味ならある。
これではない、ここにはない、この人ではない。それを確認できること。
恋愛ってなんだろう?恋愛しながら恋愛を疑っている。
恋愛を続けるほど、恋愛の不在を確かめている。
彼とセックスしているとき、(これではない、ここにはない、この人ではない)
と、声に出さずに確信をするのは容易だ。
彼の指は、身体以外のもっと大切なスイッチには触れない。
触れられたことがないので、それがなになのかわからない。
いずれにしても、これではない、ここにはない、この人ではない。
それを知るだけでも、彼といる意味はある。
タクヤは「愛」という言葉を平然と使う。愛している、愛しているから、愛しているなら。
彼、ちょっとロック入っている。しかし、残念ながら愛ではない。
私に対する好意を(好意は疑いない)、「愛」という単語に置き換えているだけだ。
二人とも愛なんて見当もつかない。
大切なスイッチってそれに関わるものならばわかりやすいが、話ができすぎ。
つまり求める恋愛がそこにはないことを知るために、恋愛しているということ。
すごい消去法。タクヤにあんまりだ。
タクヤがその役割に気がついていないのをいいことに、私とんでもないことを考えている。
とは言え、(で、すませちゃっていいものか?)
私は、いまはタクヤが好きだ。自信を持って言える。
「犬との生活」を面倒くさがったり、愚かだなとときには思ったりすることも含めて、好きだ。
そして、いつか好きじゃないときが来る。それも自信を持って言える。
大観覧車、もしくはジェットコースター。ある日ふと降りることを前提に、いまを生きている。
やがて扉を開けて、つぎのアトラクションに行くだろう。
そしてどれも似たようなものだと感想を持つかも知れないが。
(ここじゃない)と、またつぎを思うかも知れないが。
恋愛のことを考えてたら、おかあさんのことを思い出した。
ときどき思い出す程度でちょうどいい人。
一緒に住んでるんだけど、ときどきでいい。ただ今回は理由がある。
夕食のときに、おかあさんに話をしてみた。
彼女はいまだにアトラクションを転々としている。
この人の理不尽な恋愛が原因で私は父親を失った。
恋愛の話をすること自体、嫌味に聞こえてもいい。
しかし、その恋愛を私はいま探している。
いろいろ夢中になってしゃべったので、細かいやりとりは覚えていない。
おかあさんも後半は、お酒に酔っていた。
「酔わなきゃあんたとこんな話できるわけないじゃない」と言っていた。
同じ話、なんども繰り返してたし。
でも覚えておこうと思った言葉は、たくさんあった。
「質より量よ。量があるから良し悪し(男の、ってことらしい)の判断ができるのよ。
たくさんしなさい(なにを?)」
ちょっと乱暴な意見だけど、とりあえず経験だ、ということだ。
(でもそんなこと、母親が娘にそそのかすわけ?)
「最後の恋愛まで、結局恋愛は続くよ」
そりゃまあそうだが、この簡単な事実をあらためて取り出されてみると、
意外とずしんと重かった。
この事実を希望ととるか、絶望ととるか。これも私にはまだわからない。
消去法で行けば、ずいぶんと長そうだ。
おかあさんは「希望派」。楽しそうに「これがけっこう続くのよ」言っている。
タクヤとは別れよう。別れるなんて大げさな言い方もしなくていい。
「もうセックスしないから」の一言でかたづく。
そして、「ありがとう」って、ちゃんと言おう。
「ありがとう」の理由は、言わないようにしよう。
それにしても、私の最後の恋愛はいつなんだろう?
ぼくには、なにもない。からっぽだ。
バンドで愛を歌ってみても、傷を見せつけてみても、それがなにかもわからない。
焦らなくていいと、ミユキさんは微笑んでくれるけど。