コトバのコトバ

第4回 タケシ

9時か。この時間に帰ってもマサコは帰っていないだろう。

2年半前に結婚した。いい夫婦の日だ。

その頃は幸せだったのか、幸せになろうとしていたのか、もう思い出せない。

 

 

名刺交換をした時、大きな花のような人だと思った。

自分が花であることに照れがない。

彼女はクライアント。ぼくはそこの広告をつくっている。

美しい人が自分の美しさの力を充分理解しているような発言と振る舞い。

年下の男はそれに抗う手だても気力も持たない。

ただ触れてはいけないいけないと思うほど、

届かなそうな高みで挑発するように揺れているその大きな花から

目を離すことはできなくなっていた。

仕事での彼女は、神のように冷酷で鬼のように残酷だ。

それはそうだとしても、

ぼくには彼女と共にいることにのみ時間を費やす意味がある。

神でも鬼でも恋は恋だ。

もっとも彼女にとってぼくは全く恋愛対象ではなかったらしい(後日談)

おかげでやがてちょっとしたヒマつぶしの相手に

取り立ててもらえることになるのだが。

強さ脆さを気ままに使いわける男に付き合うことに疲れ果ててもうこりごり。

離婚してから半年、仕事以外の話を男性とするのはそれ以来のこと――らしい。

その相手にぼくが選ばれたという事実に

(たとえ相づちしか求められない聞き役としても)

気持ちが宙に舞ったことを覚えている。

幸福な密会の場所が彼女のオフィスビルのスターバックスから、

数か月かけて彼女の知り合いのバーに栄転し、

他者の話題が出てこない2人だけの会話が成り立つようになると、

若い欲望は小さな密会の幸福ではとても辛抱できなくなる。

もしかしたらすでに彼女の中にぼくの居場所があるような気がして、

勘違いだろうか勘違いでもいいと、

ある夜、酒の勢いを借りて気持ちのコントロールを捨て、

どうかぼくを恋愛対象として見てくださいと震える声で告げた。

それから1週間仕事の場でも完璧に無視され続け(彼女の完璧は完璧だ)、

1週間後に、よろしくお願いしますと頭を下げられた。

気絶するかと思った。

自分には子供の頃から軽はずみなところがある。

いつか何かの流れで話題が不用意にも

彼女の前の夫に及んだことがあった。

そして率直に打ち明けられた人物は、広告業界の人間なら

名前くらいは聞いたことのあるようなスタークリエイターで、

ぼくなんかは較べものにならない。

他人事のようにへえーそーなのとやっとの思いであげた声が、

これからずっと続く胸を締めつける痛みの

最初のうめき声となることにはまだ気がついていない。

(どうしてかつて男が彼女を殴り、

それで彼女の左耳の聴力が弱いということまで聞いてしまったのだろう?)

「それ」は始まってしまったのだ。

持って行き場のない劣情の火はくすぶり続け、しかしその間にも愛は育つ。

彼女はぼくのかけがえのない人になり、ぼくは彼女の居なくてはならない男になる。

この頃に「それ」は克服しておくべきだったのだ。ただ、勇気がなかった。

そして2人は、今となっては不用意な結婚に至る。11月22日。

 

ある写真家のパーティでその男を見つけた。

男は長身を頭半分周囲から突出させて人の輪の中で笑っていた。

ヤツが妻の鼓膜を破った。ヤツが妻を犯した。ヤツが妻を捨てた。

その時の動揺は酷かった。

手に持ったぬるくなったシャンパンが

もういちど泡を出すほど震えた、と言ったら笑えるか?

 

過去は過去だ。理解できる。

ただ、目の前のこの男の存在は過去ではない。

これからもこうして立ちはだかる。

ぼくはトイレに駆け込み、胃の中のものを全部吐いた。

脳の中身も吐ければいいのにと思った。

夜遅くやっとのことで家に辿り着くや否や、

眠っている妻の携帯に男の名前を探し、

不在にすらその男の存在を確かめている。

酔ったフリで妻に襲いかかり、何も知らない妻をまるで

自分の手の甲に釘を打ちつけるように責めたてる。

しかし愛しくゆがむ顔を見下す視線すらあの男のものに思えた。

絶望の果ての射精。これが、妻との最後のセックスとなった。

地獄への緩やかな傾斜が始まる。

男の名前を勝手に思い浮かべては1日中塞ぎ込んだ。

雑談に男の話題が出て来ると苛立ちを必死に抑えた。

それが元で小さなミスをいくつか犯した。

男の立ち回りそうなところには近づかず、

男のつ関わる仕事から目をそらし、

関わる商品を決して手にすることはなく…ぼくは何をやっているんだろう?

そしてついに休日の昼間のNHKの番組で(コマーシャル新時代の旗手たち、だと!)

夫婦揃って彼とご対面となった。

慌ててチャンネルを変えようと妻が手にしたリモコンを奪い取り

画面を睨みつける憎悪の眼を見て、

彼女はぼくにここ数か月発生していた感情を一気に了解したようだった。

逃げ場のないシチュエーションに劣情の炎は一気に燃え上がり、

ぼくは飲んでいたビールグラスをテレビに向かって投げつける。

しかしテレビの男に当てることすら叶わずに

壁の下で粉粉になったグラスを泣きながら拾う妻を見ながら、

つくづく見下げ果てた男になったもんだと冷笑を浮かべる。

風俗店に行き始めたのはその前後のことだ。

裏切ることによって癒されるとでも言うみたいに。

そのうち馴みの女のコも出来たが、

下半身を剥き出しにしてみたところで思うのは妻(と男)のことだけだ。

ある朝、目が覚めると、ダイニングテーブルの上に

例の風俗店の会員カードが置かれてあった。

裏面には7つのスタンプ。「10コで30分コースサービス」とある。

妻はその日から3日間家に戻らなかった。

そして3日後帰って来た時には完璧に表情を消し去っていた。彼女の完璧は完璧だ。

彼女の帰宅が著しく遅くなった。不思議と穏やかな気分だ。

 

 

お稽古が終わってみんなでいつもの居酒屋へ向かう。

今夜もアキラくんにさりげなく歩調をあわせ、寄り添うように歩く。

この時間がいちばん好きだ。