第 16 回 タツロウ
今朝も二日酔いがひどい。今朝といっても、起きたのは12時前だが。
まず、トモミの病室へ行って、以後のスケジュールはそれからだ。
腹が減っている。なにも食べないで、飲むからだ。病院の食堂へ行こう。
カレーライスが、結構うまい。
先週病室に行ったとき、527号室のドアを開けると、なにもない。
ベッドしかない。そうか、彼女はもういないのか。
外に出て、部屋番号の下の名札の不在を呆然と確かめていると、
向かいの病室から聞き覚えのある声が聞こえた。
私が来なかった週末に、彼女が一時帰宅を許されて、病室が変わっただけのこと。
安堵の気持ちを読まれないように注意を払いながら、こんどは正しいドアを開けた。
彼女の生命の浮き沈みに、一喜一憂する立場ではない。
過度の思い入れは、せっかくの現状を変えてしまう。
しょせん前夫のすることだ。よい別れかたをしたわけでもない。
最初に私が彼女を捨て、最後に彼女が私を捨てた。
「前の奥さんが、骨髄性白血病を発症したらしい」
どこから流れてきたのか、どうやって自分まで途切れずに伝わってきたのか、
そうかこれが、風の噂か。なるほど。
普通は会いに行くものではない。
妻じゃなくても別れた女に対して、そんな厚顔も厚情も持ち合わせていない。
ただ、昼飯の酒が勢いをつけたのか、
タクシーに乗り行き先を告げるのに躊躇はなかった。
もちろん、気は軽くはない。ふたつ理由がある。
ひとつは、すでに酷く弱っているのではないか。
5年前に私の母親が、同じ病気で亡くなっている。
おしまいは、見るのもつらい様子だった。
もうひとつは、その弱った姿をわざわざ見物に来たと、思われはしないか。
ずっと、おたがいの痛い腹も痛くもない腹も、探りながら暮らしていたあの頃。
今もそう思われてもしょうがない。
ひとつめの心配は、無用のようだった。
骨髄の中は知らぬが、彼女は評判の美人妻で通用する。坊主頭が似合う。
やせたようだが、生死の病である。変わりないほうがおかしい。
3年ぶりの彼女はベッドを起こし、本を読んでいた。
あーっ、と声に出しての驚きをもって迎えられたことも含め、意外な歓待ぶりだった。
歓待が、心地よかった。
人と会わない個室の生活である。
かつて失敗した男も、ハプニングとしては悪くなかったのかもしれない。
「私のまいってるのを楽しみにしてたんなら、タイミングが悪かったよ。先週なら酷かった」
やっぱり言われたか。
もうどうでもいいことなのだが、私はこの女をよく理解している。
私は「そんなつもりはない」と答えた。
「前の妻が、自分の母親と同じ病名だった。
そんな符合が気になって、どうしても様子を知りたかった」
彼女はただ、「あなたらしい理由ね」と言っただけだったが、
母親の病気が夫婦の揉め事の原因のひとつだったのだが。
そんな話を振ったり答えたり、
3年のブランクが、中年男と中年女の記憶をぼかしているようだ。
今度はなんか食べるもの持ってくるよ、と部屋を出て3日後また訪れた。
おいしい明太子が食べたいと言ってたのを思い出して、
福岡から上物を取り寄せたのだが、医者にこっ酷く叱られた。
今の彼女には与えてはいけないものだったのだそうだ。
母親のときは、食べものを選べる状態ではなかった。
私とトモミに対する説教がひとしきり終わったあと、主治医がふと気がついたように私を見て、
「ところであなた、誰なんですか?」と聞いた。元夫婦、爆笑。
そうだよな、私、誰なんだ?なぜここにいるんだ?
「まだ、あんな生活送ってるの?」
あんなとは、配偶者を捨てて溺れた仕事と酒の生活、ということだ。
私は「前よりもっと酷い」と笑ったが、
前よりとは、結婚生活のタガが外れてコントロールできないくらい、ということだ。
「もう年なんだから、自制しなきゃダメよ。あなたは自分を甘やかしすぎる」
痛いとこつくセンスは、相変わらず。
もうどうでもいいことなんだが、この女は私をよく理解している。
「誰か今、面倒見てくれる人はいるのか」「遠まわしに、男のこと聞いてる?」
「いや、べつにそういうつもりは」「うふふ」
「あの人とは別れた」彼女が逃げた相手の男のことか。
苦い記憶だが、記憶にもずいぶん女が上書きされている。
「結局彼は、離婚できなかったから。去年別れた」
「ざまあ見ろって言わないよ」「浮気じゃなかったから、後悔はない」
「本気だったのか」「誰かさんが、浮気に精出してる間に」
「今さらそんなこと言うなよ」「あはははは、ごめんごめん」
ふたりは壮絶な会話を、昔走ってた路面電車の思い出を交換するように、交わしていた。
「子供がいたら違っていた?」「そういうことにならなかったからねえ」
路面電車は、いずれにせよ消える運命なのだ。
私は週に2度の割合で、病室を訪れた。
何曜日、とか決めずに。待つ待たせるの関係は、彼女も望まない。
彼女の体調がいいときは、屋上まで車椅子で連れて行った。
そこからは、紅葉した山が見えた
「紅葉も近くで見ると、ただの枯葉なのにね」とトモミは言った。
「花の色は」のつもりなのか、「最後の一葉」なのか。
冬枯れになると、もうなんのコメントもなくなった。
時がたつのが、時がたつ以上のなにものかだった。
「薄目明け 抗がん剤の 液の色」その他、いろいろ。
ある日、彼女がノートに書き付けているものを見た。
「なんだそれ?」と尋ねると、「俳句だ」と言う。
「辞世の句です」と言う。怒ろうか流そうか考えて、怒った。
「死をちらつかせるんなら、もう来ない」
私は、彼女が生きるのか、長くはないのかすら知らない。
「ところであなた、誰なんですか?」以来、
主治医と日常会話を交わすようにはなったが、病状を語られはしない。
週1で訪れるという彼女の母親に尋ねればよいのだが、案の定、以前よりの不仲ときている。
病人の泣き言や甘えは、しばしば脅迫だ。
なによりも、彼女らしくない。本編に至るのは、もうすこし後でいい。
トモミは「あなたらしい怒りかたね。怒られるの、久しぶり」と笑った。「でも、ありがとう」
オールドラヴァーはグッドフレンズになれる、という甘ったれた歌があった。
なれるかも知れない、と今なら思っている。
ただし条件。
衰え、自信なく、孤独で、弱さを知り、相手の弱さを思いやれるようになった、オールドラヴァー。
ならば、われわれをグッドフレンズにしてくれたのは、年齢などでは、もちろんない。
彼女の病だけでも、実はない。
昨年の秋ぐらいから、酒が気持ちよく身体に入って行かなくなった。
病巣の塊の実感が、ごりっと体内にある。
「雲を割って 射す陽光の ありがたさ」下手くそ。
「ちから尽く 時を覚えて ちから込め」未練。
今日の昼ごはんは、鮭のムニエルだった。
どうして病院の食事は、匂いがきついんだろう。冷たい料理のほうが、まだ救われる。
またわがままを言って、マコトくんにお付き合いしてもらった。