コトバのコトバ

第23回ミユキ

ヨウイチはどうしているんだろう。同じ東京に住んでいるはずなのに、会う術はない。
一緒にいた時間はあんなに長かったのに、顔も思い浮かばないけど。
私が刺した傷跡は、夢によく出てくるけど。

 
なぜあの男とあれほどまで結婚することにこだわったのか、私なりの答えは持っている。
ある意味魅力的な男だったが、その魅力のせいでもないことも知っている。
運命を感じたというわけでもない。

一生懸命運命を感じようとしたことはあったけど。
学生の終わりから一緒に暮らし始めた。

「青春を返せ」なんてセリフで済ませられればよかったが、少し違うのだ。
付き合い始めた頃、ケータイを二つに折られた。

メモリーを消せと言えばいいだけなのに、と冷静に見ていた。
ヨウイチには、私の「それまで」が気に食わなかった。

前の男を知る人との付き合いを禁じ、男友達との絶交を命じた。

彼の二人で始めたいという気持ちだと解釈した。

そのエキセントリックな行為が、私を愛しているゆえだと信じた。
恋愛は洗脳だと思う。
(人を好きなっちゃうと、もうコレだから)と、

両方の手のひらで視野を狭くしてみせる仕草はよく見る。
きっと脳の使うエリアもきわめて狭くなっているに違いない。

「彼の気持ち」を中心に数平方センチメートル。
おのろけではない。人のケータイを二つに折る男である。

ヨウイチの機嫌のいい悪いは私をとても、忙しくさせた。
今の30歳が昔の20歳だとはよく聞くが、

20代のヨウイチはまるで大人になりたくない高校生だった。
基本的には、「やさしく快活な青年」と呼べた。

思いやりもあったし、最低限以上の社会性も正義感もあった。
ところが、彼にとっても恋愛は一種のパニックだったのだろう。

時おり「やさしく快活な青年」は豹変した。
私を強く束縛し、私の人格や個人史を責め、軽い暴力を行使し、

それでも不満に満ち、不機嫌だった。
高校時代の私の初めての男の振る舞いに似ていた。束縛と軽い暴力。

そのあと反省して落ち込むところも似ていた。
「オレにはオレとオマエを壊したい」――まるで犯罪を起こした少年の、

中学校の卒業文集のコメントである。
その不満の矛先が世間ではなく私でよかったのかもしれない。

私はただ受けとめていた。「彼の機嫌」がすべてだった。
「束縛も嫉妬も恋愛にとってはスパイスのようなものだが、

スパイスなんだから入れすぎちゃダメでしょう」
今ならそれくらいの言葉を返すこともできるだろう。

話し合うというのも、いい方法だったに違いない。苦笑。
しかし当時の私の、わずか数平方センチメートルの脳みそには、

彼に委ね従う以外の想像力はなかった。
恋愛は洗脳だ。洗脳された女と、パニック気味の男だ。

普通ではない。しかし普通ではないことが普通だった。
異常な日常も、日常だ。エキセントリックな性格も、性格のうちだ。

慣れてしまっていたのだ。いいも悪いもない。
むしろそこからが問題だった。

一緒に暮らし始めて3年目くらいの頃か。そんな日々の中である日気がつく。
ルールは変わったのか?

ヨウイチは軽い暴力はおろか、もう束縛もしていない?私の視野も脳も以前のままなのに?
たとえば私が友達との付き合いで、つい夜遅く帰る。

私はきっと怒られると思って、おびえて家のドアを開ける。
ヨウイチはもう寝てしまっている。

あの情熱と信じた激しさのかけらもなく、「明るく快活な青年」の寝顔で。
あれ、なんか違うぞ。こういうときには、

ひとしきり責めたてるのではなかったっけ?壊すんじゃなかったっけ?
ずるいぞ、ルールの変更くらい告げろよ。

自分だけが恋愛パニックから勝手に解放されて、私に何の相談もなしに。
屈託なく謝るなよ。

束縛と軽い暴力の日々が間違えていたなんて、軽々しく言うなよ。
私のケータイを折り、過去の写真を捨てさせたドラマは、

いつの間に終わってしまったのだ?
「はしごを外された」はおかしな使い方かもしれないが、私は晴れて自由の身になった。
そして裏切られたと感じていた。置いていかれたと感じていた。

私にはもう自分で決める判断力など残ってないぞ。
その頃から私は結婚を切望するようになったのであるが、

その理由は彼の気持ちが変わったことがきっかけではない。
私の心が変わらなかったことが原因である。
宗教団体のトラブルの、例のマインドコントロールと恋愛は同じだ。

熱心な信者ほど、社会復帰が覚束ない。
「あの」生活しか知らないのだ。

自由に歩いてよいといわれても、歩き方も忘れてしまった。
今度は私がヨウイチを束縛し責める番になった。7回裏の攻撃。
彼の行動や言動のネガティブチェックを怠らず、

嬉しいも淋しいもなく、ただイライラが心の中にモヤモヤしていた。
当然、彼は私を避け始める。

それを感じて、私は彼の暴力からも逃げ出さなかったのにと、不機嫌を露わにする。

そして彼がまた逃げる。

見事な悪循環に笑ってしまうが、あの頃その循環を絶つことは別れることしかなかった。
ヨウイチは私の知っている限り、3回浮気をした。

初めの2回は、やはり怒った。彼は「浮気だよ」と言った。
本気ではない、オマエと誰かとは順序を守っている、

「浮気だよ」にはそんな意味があるのだろう。ああそうですか。
3回目のとき軽い言い争いの後、

私は刃渡り3・5センチメートルのヴィクトリノックスでヨウイチの腕を刺した。
ほんの成り行きで。その成り行きに二人とも青ざめた。

傷は深くはなかったが、放置できる程度でもなかった。
「病院へ行くが警察沙汰にしたくないので、オマエは来るな」と彼は言った。

脅しとも取引とも取れた。
私は家を出て、その足でバンコク行きの飛行機に飛び乗った。

恋愛洗脳が解けるまで、そこから2年かかった。
ヨウイチは浮気が原因で、私に刺されたと今でも思っているだろう。

具体的な恨みでは、人は人を刺さない。
人が人を傷つけるのは、自分の混乱の発露だと私は思っている。

彼に会ってそれを話したいが、叶わないことか。

 

人生の、けじめでも、節目でも何でもいいが、その辺がよくわからない。
大過なくゆるゆると流れていく日常に、

わざわざ節目を見出してけじめをつけるのは、タフな発想である。
ミキがイライラしていることはよく知っているのだが。